2010年12月16日

『擦り切れた膝』(House-maid's-knee)

「……はぁ」
 ふとこぼれ出たため息の大きさと、目の前に広がったその白さに驚いて、エルは慌てて周囲を見渡す。
 いつもと変わらぬ光景。
 目の前、そして振り返っても、絨毯の敷かれた廊下は伸びている。
 床をこすろうとした手を止めて、エルは手にしたブラシを見つめた。
 長い間使った道具は消耗していた。ハウスキーパーのミセス・タウンゼントに、新しいブラシを頼まなければいけない……けちな彼女は、あまりいい顔をしないだろうが。
(仕事を続けないと)
 黙々と、エルは絨毯の上をこする。
 考え事をしている暇なんて、無い。
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2008年12月26日

『春、ひとり窓際で』(Under the Blue Sky)

「アリス……元気かな?」
 視線の先にある二つ並んだ寝台。片方は、綺麗に片付けられている。見ないようにしても、いつの間にか、サリィの目はその空白へ吸い寄せられていく。
 一昨日まで、そこにはアリスがいた。
 同い年で、わがままで、食い意地が張っていて、負けず嫌いで、でも笑顔が素敵で明るかった彼女は、サリィに相談もしないままに新しい職場へと飛び出していった。
「ごめんね」
 その一言を残して。
 いつまでも一緒だと思っていたのに。
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2006年07月26日

その小さな手〜『ヴィクトリア朝の暮らし』7巻より

 ランプの火が揺れる。
 小さな炎は少年の顔を、手元を、赤く照らしていたが、部屋全体を明るくするには至らない。壁には少年の小さな背中が、大きな影になって映っていた。
 机の上に積み上げられた十数個の革靴。そのひとつを手にして、ブラシをかけて砂や泥を払ってから、少年は机の上に置く。
 小さな手に持った布で、少年は磨いていた。指先に力を込めながらも、出来るだけ丁寧に、明日にはまた汚れて戻ってくる、この大きな革靴たちを。


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2006年05月13日

第三十話 百年後

 そこはすっかり荒れ果て、ひどいものだった。窓ガラスは破れ、外から入り込んだ水が足元に溜まっている。薄暗い建物の中、散乱したガラスの破片、茂り始めた雑草……
 ここにはかつて、どんな光景があったのだろう?
 表面が破れ、ほこりを被ったソファたちが幾つもあり、炎の絶えた暖炉は、真っ白に蜘蛛の巣に覆われていた。壁に吊り下げられた、錆付いたベル。
 壁に掛けられたまま、忘れられた額縁。中にあるのは、色褪せて消えてしまった写真だろうか?
 机の表面に、刻み込まれた跡。屋敷で働いた使用人たちが囲んでいたテーブルを、飾るものは何も無い。かつて並んだ湯気立つディナーの数々も、その上を飛び交った雑談も。
 ここはかつて、私の曾祖母が働いていた屋敷。
 今はもう、誰の声も、聞こえない。
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第二十九話 百年前

 白髪の執事は眼鏡をかけて暖炉の傍で新聞を読んでいる。
 メイドの少女は、近くのソファに腰掛けて、編み物をしている。懸命に、懸命に、手元ばかりを見つめて。大きなひとり用のソファに腰掛けた彼女、隣にはもうひとりが、座っていた。
 顔かたちが同じ、双子の少女が、妹の肩に寄りかかって眠っている。無邪気な寝顔は、暖炉の前、暖かい赤い光に包まれて。
「――天使みたいだな」
 向かい側のソファで、ヴァイオリンの演奏をしていたベスト姿のフットマンは手を休めて、呟いた。
 目を閉じて、演奏に耳を傾けていたハウスキーパーは、音が途切れると、静かに目を開けて、紅茶を飲みながら、この場所を、使用人ホールを見渡す。
 部屋の隅、丸テーブルではワインを飲むハウスメイドと、キッチンメイドがいる。酔いが回ったのか、ふたりは無言で、ただ赤い炎を見ている。
 壁に据えられた十数個のベル、一つ一つには部屋の名札がついている。その使用人を呼び出す仕組みも、この時間はまったく鳴らず、主人たちも使用人たちの時間を、大切にしていた。
 ここは使用人ホール。使用人たちが集い、笑い、怒り、悲しみ、いがみあい、わかりあい、感情をぶつけあって、ひとつになって、そしてひとつに戻っていく場所。
 今ここにある暖かな温度に、ハウスキーパーはもう一度目を閉じる。フットマンが再開した、ヴァイオリンの快活なリズムに身を委ねて。
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第二十八話 ほんのひと時

 銀食器をしまい、戸棚に鍵を掛けると、長かった一日の仕事も終わる。朝までの数時間、許されたわずかな眠りの時。あくびをしながら、マーク・グローバーは部屋を出る。
 今日も一日、長かった。
 中央の廊下を歩くと、靴音が響き渡る静かな空間、ただ屋敷にいるのが、自分ひとりだけみたいに、思えていたのが、ドアが開く音で不意に遮られる。
「あぁ、疲れた!」
 スティルルームの扉が開き、ひとりのメイドが姿を見せる。外したエプロンを手に持ち、大きく両手を天に伸ばしていた彼女は、マークの姿に気づくと、ばつが悪そうに、笑った。

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2006年05月09日

第二十七話 彼女の庭

 背の高いレンガの壁に囲まれた屋敷の庭園。主人たちの為に庭師たちは誇りを持って、技術の粋を尽くし、食卓を飾る野菜を、瑞々しい果物を、薫り高い花々を、育て上げる。
 緑が広がる庭園は太陽の光を浴び、色とりどりの花が咲き乱れる。壁際に据えられたサクランボの木々も、小さな白い花をつけて、風景に彩りを加えていた。
「ここがいいわ、ハリー。ここにわたしのお庭を造りたいの」

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2006年05月08日

第二十六話 アリシア

注:『第二十四話 届かない想いと』『第二十五話 別離の前に』の続きですので、そちらからお読みください。
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第二十五話 別離の前に

注:『第二十四話 届かない想いと』の続きですので、そちらからお読みください。

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第二十四話 届かない想いと

「結婚がダメでも、キスならばいいでしょ?」
 駄々をこねる主人に、アリシアは、ため息を吐く。
「――わかりました。キスしても、よろしいですわ」
「本当?」
 ソファに腰掛、足を揺らしていた少年は、ぱっと飛び降りるが、水を差すように、静かにアリシアは微笑んで、立ち上がると、小さな主人の頭に手を置いた。
「但し、背が届くのでしたら、ね」

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2006年05月07日

第二十三話 煙立つ街、丘の上で

 見晴らしのいい丘からは、街のすべてが一望できた。広々とした街並み、立ち並ぶ古い建物、背が高いタウンハウス、曇った窓ガラス、巨大な尖塔、何本も伸びる煙突から、吐き出される白い煙……
 それでも、視界を埋め尽くすのは、色を失った空。
 マンチェスターの、灰色に閉ざされた空の下。
「――今日もこの街は何も変わっていないわ」

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第二十二話 戻るべき場所

「君は、あのサイラスが後任にふさわしいと?」
 壁一面が絵画で飾られた書斎、奥にある暖炉の前のソファに腰掛けたまま、初老の紳士――財務卿アーネスト・ヘイル――は、目の前に立つ執事へ問いかけた。

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第二十一話 日が昇る、その前に

 赤い光が、暗闇の中、生まれる。
 マッチをこすると、きらめくような炎と、立ち上る独特の匂いとが生じる。まるで魔法のように、突然生まれる赤い輝きを、エレンは気に入っていた。
 残り少ない蝋燭に火を移して、エレンは部屋の外に出る。
 片手には蝋燭を、片手には道具箱を。

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2006年05月06日

第二十話 天井を、仰いで〜続・開かれたドア



注:第十九話の続きなので、先に十九話からお読みください。


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第十九話 開かれたドア

 緑色のベイズのエプロンを着けた執事とフットマンが肩を並べ、バトラーズ・パントリーで後片付けをしていた。フットマンが汚れを流し場で洗い落とし、執事が丁寧に銀の皿や器、それにナイフを鏡のように磨き上げていく。
 互いが互いに信用しあい、無言のまま進む完璧なコンビネーション。水の流れる音と、布の音、それにわずかな吐息。厳かな儀式のような時間は、不意に終わりを告げる。
「ここで働いて、何年になる?」
「もう三年になりますね」
 上司が珍しく話しかけてきたので、サイラスは作業の手を止める。
「転職を考えている頃かな?」
「……三年一区切りですからね、この仕事は。ですが、まだ……」
「転職は少し、待ってみないか?」
 サイラスは問いたげに、敬愛する上司を見る。白髪の混ざり始めた壮年の執事は、いつもと変わらぬ低い声で静かに告げた。
「――来月末で、私は離職する」
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2006年04月09日

第十八話 大好きな人

 暖かい暖炉の前、ソファに腰掛けた少年は、傍にいるメイドをじっと見つめている。メイドは縫い物を一生懸命、夢中になって、針の一刺し一刺しで、頭の中に描いた模様を、形へ変えていく。
「どうかなさいましたか、レイノルド様」
 顔も上げず、メイドは幼い主人の様子を感じ取る。
「きれいだね、アリシアは」
「からかわないで下さい」
「僕は本気だよ」
「ありがとうございます」
 手を休めようとしないアリシアに、レイノルドは少しいらだつ。
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第十七話 私のメイド

「初めまして、エレンと申します。本日より、あなたのお世話をさせていただくことになりました。何なりとお申し付けください」
 ある日突然目の前に、メイドがやってきた。正確に言うと、私がこの家の世話を受けるようになった結果、メイドがあてがわれただけなのだけど、私にとっては一大事で、言葉が無い。
 生まれも育ちもお嬢様ならば何も悩まなかったのに、私は生まれも育ちも、そうじゃない。メイド一人がやってきただけで、どぎまぎしてしまうのだから。

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第十六話 明日から

 ふたりの少女が、まるで鏡のように向かい合っていた。瓜二つの顔立ち、背の高さ、そして髪型。薄暗い部屋に明かりは無く、天井の窓、月明かりを頼りに、二人は互いを見つめていた。
「これで大丈夫かな? おかしなところは無い、ミナ?」
 着飾った姿――屋敷から支給された制服とエプロンを身に着けて――で、エレンは不安そうに確かめる。もうひとりの少女、ミナは無言で小さく頷いた。

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2006年04月02日

第十五話 あの方と、さようなら

 開いた窓から、ささやかな風が注ぎ込み、カーテンを揺らす。静謐さに包まれた穏やかな午後、子爵家の三階の私室。開け放たれたクローゼットから、衣類をひとつひとつ丁寧に取り出して、ひとりのメイドが大きなトランクに詰め込んでいた。
 トランクは幾つもあって、その作業はなかなか終わらない。
 深いため息を吐いて、マリアは天井を見上げる。そうでもしなければ、涙が零れそうだった。
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2006年02月28日

第十四話 小さな決意

 石垣の上に腰掛けて、彼女は静かに足を揺らす。ぼろぼろの靴、爪先は穴が開いている。櫛の通らない髪の毛は乱れて。黄金色の夕暮れに照らされた横顔、赤く腫れた頬と、乾いた涙の痕。
 生きていても、辛いだけ。
 去年と何も変わっていない。
 生活は全然良くならない、ただ家族だけがどんどんと増えていって、一番上のお姉さんだからって、弟や妹の面倒を見たり、食事の量が少なかったり、学校にだって、満足に行かせてもらえない。私は勉強が出来るのに……
 もううんざり。

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