2006年07月26日

その小さな手〜『ヴィクトリア朝の暮らし』7巻より

 ランプの火が揺れる。
 小さな炎は少年の顔を、手元を、赤く照らしていたが、部屋全体を明るくするには至らない。壁には少年の小さな背中が、大きな影になって映っていた。
 机の上に積み上げられた十数個の革靴。そのひとつを手にして、ブラシをかけて砂や泥を払ってから、少年は机の上に置く。
 小さな手に持った布で、少年は磨いていた。指先に力を込めながらも、出来るだけ丁寧に、明日にはまた汚れて戻ってくる、この大きな革靴たちを。


 椅子に腰掛けた少年の足は、床に届かない。首に吊り下げた作業用の革エプロンも、だらっと垂れていた。
まだ十歳のサイラスは、泣きそうな顔で、作業を続ける。
 家に残って農作業をするより、お屋敷の仕事は大変じゃないと、分かっていた。
 太陽に照らされることも無く、雨に打たれることも無く。
 時々、職場の人に怒られるけれど、お金だってくれるのだし、父さんも母さんも喜んでいた。
「はぁ……」
 だけど、この狭い部屋、革靴の匂いが染み付いた小さな部屋にいると、時間から取り残されて、一人ぼっちになってしまったような、寂しい気持ちに襲われる。
 窓から見える景色は単調で味気なく、黒い夜が、風景を閉ざしていた。闇の向こうに何かがいそうで、少年は休めた手を、もう一度、動かしていく。


 どれぐらい作業をしているのかも、わからなくなってくる。
 手は黒ずんで、額には汗も浮かぶ。
 段々と悲しくなってきて、世界には自分しかいないような、それなのに明日の同じ時間には、またここで靴を磨いているんだろう。
 何日、何週間、何ヶ月、何年先も……
 顔も見たことが無い人の靴。
 本当にこの靴は人がはいているのだろうか?
 温度も無く、冷えた靴が、ただ勝手に歩き出して、ここに戻ってくるような、磨いても磨いても終わらない、そう思うと目の前に積まれた靴が、不意に怖くなって。


「――こんなところで眠ったら、風邪引くよ?」
 誰かに肩をゆすられて、サイラスは目を開ける。開け放たれた部屋の扉、廊下から差し込むわずかな光を背にした彼女が誰なのか、サイラスにはすぐにわかった。
「ねていないよ」
 くすっと、ハウスメイドのサリィは笑った。
「嘘おっしゃい。あなたが戻ってこないから、逃げ出したんじゃないかって、マークが言うんだもの。でもあなたはそんな子じゃないって、私がいちばんわかっているからね」
 優しく頭を撫でられると、サイラスはサリィにしがみついて、白いエプロンに顔をうずめる。
「お姉ちゃん……」
「しょうがない子ね」
 微笑みながら、サイラスの頬を、涙が残る目じりを、サリィはその白いエプロンで拭った。いつまで一緒にいられるかわからないけれど、その日が来るまでは、守ってあげたいと。

posted by kuga at 00:55 | TrackBack(0) | 短編集
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